商社での「背番号」と「海外勤務」

自身の背番号とは

商社マンとして働いていた頃、仕事柄、社内・社外を通じて随分と大勢の方々とお付き合いする機会に恵まれました。

同期入社の仲間の多くは、入社時の配属部署をベースとしてやがてそれぞれの関連分野へと転出するのが一般的な進路でした。ちなみに、社内では所属部門を「背番号」と呼称する慣行がありました。「彼の背番号は機械だ」とか、「私の背番号は財経です」などと言っておりました。この背番号は定年時まで付いてまわりますが、在職中に背番号が頻繁に変わるような例は稀でした。

私の場合、入社から定年までの間に背番号が何と5回も変わり、いささか異例だったようですが、仕事や対人関係などで何か問題を起こし配転されたわけではないので、特に恥じるような気分は少しもありませんでした。むしろいろいろな部署においてそれぞれ異なる貴重な体験をさせてもらえ幸せだったと感謝しています。

初の海外勤務

我々の年代は、念願の商社マンになったからにはできるだけ早く海外各地での勤務を体験したいと熱望したものでした。赴任先は欧米先進諸国の大規模支店から、発展途上地域での駐在員までと極めてバラエティーに富んでいましたが、自分の志望が必ずしも叶うはずがなく、会社の命ずる先に勇躍赴任せねばなりません。

ホノルル営業所が私にとって初の海外勤務先でした。邦人社員は年配の所長と私の二人だけ。現地人従業員3名の小店でした。翌々年には所長も定年で帰国、その後の約3年間は文字通り「孤軍奮闘」の毎日でした。土地柄、アメリカ本土向け出張者が連日のように通過、年間対応客数は、延べ約1,000人にも達する超多忙な明け暮れを体験しました。おかげさまで、内地ではなかなかお目に掛れないVIPの方々とも親しく会食、懇談させていただける機会にもたびたび恵まれました。

若かった私にとっては極めて貴重な体験でした。その後、会社の方針でホノルル営業所は閉鎖されることになったため私が最後の所長となりましたが、常夏の地での超多忙な日々を40年近く経った今でも懐かしく思い起こしております。

最近では積極的に海外赴任を志望しないような商社マンが増えているとの噂をときどき耳にしますが、若いうちに海外に雄飛し異文化に接触して大いに見聞を広めることが、将来のために大きな財産となると思います。ぜひ、海外勤務を志向されるようお勧めします。

1958年三井物産入社:星野 仁一