社内報の変身と転籍

「社内報」から「企業広報誌」へ

発刊当初は対労働組合対策として人事部管轄下にあった「社内報」が一応の成果をあげ得たことから、「企業広報誌」に変身する方針転換がなされました。その結果、担当者の私も編集業務ともども、人事部から業務部へ転籍しました。当社の業務部とは経営幹部に直結し社内各部門を統括、経営の根幹を担う重要な部署です。昔の軍隊にたとえれば「参謀本部」的な存在で、社内各部門からスタッフとして選抜された俊英達がにらみを利かしておりました。

私が配属されたのは「業務部振興課」。当社の広報、宣伝活動の一切を取り仕切る部署です。日常業務は超多忙を極めており、私自身も従来の社内誌編集実務は若手担当者に任せて新たな分野の仕事に取り組むことになりました。具体的例としては、「国内外での見本市開催」「各種広告類監修」「リトルリーグ(少年野球)後援」などでした。間接的ではありましたが、商内実務への関わり合いを実感することができたと思います。

社内外との新たな人脈

特に貴重な体験だったのは、1945年「巡航見本市船さくら丸」に当社ブース(船内出展小間)のアテンダントとしての約100日間にわたる船上生活です。東南アジアおよび極東の8ヶ国、12港を歴訪、各寄港地で船上見本市を開催し当社ならびにグループ各企業のPRに努めました。各国政府首脳はじめ紳士淑女を含む大勢の賓客が各港で来船、当社現地支店関係者の応援を得て対応に忙殺されたものでした。最終寄港地マニラでの日程を無事終了、数日の航海を経て母国神戸に帰着した時の感慨は忘れ得ぬ想い出です。社内報では国内で多くの知己を得たことは前述の通りですが、巡航見本市では海外各地で社内外の人達との親交を深めることができ、新たな人脈を広げることになりました。

ユニークだったのは、「リトルリーグ後援」です。米国ウイリアムスポートでの世界選手権大会で見事優勝した日本リトルリーグ和歌山チーム一行を当社のニューヨーク支店が歓待しました。和歌山チームが帰国後、御礼挨拶のため来社したことがきっかけで、当社がリトルリ-グの後援をすることになり、業務部振興課の私が実務担当を命じられました。私自身、生まれて初めての海外出張は1944年末から新年にかけてのリトルリーグチームを引率しての豪州出張です。現地では東大野球部OBの当社駐在員に全面的に協力してもらい大助かりしました。なお、当社によるリトルリーグ後援は現在でも継続しております。

※本記事は匿名とさせていただきます。