ホノルル店勤務がつなげた縁

初めて舞い込んだ注文が…

ホノルル店勤務の終盤、真珠湾の近くにあった現地セメント工場から日本製クリンカー(セメントの半製品)輸入の注文が初めて舞い込みました。私は残念ながらセメント商売の経験はなく、商品知識もほとんどありません。やむを得ず、客先で書いてもらった「注文書」(英文)をそのまま東京本店セメント部に送信し、東京からの「返信全文」(英文)を客先に持参するという、まるで「メッセンジャーボーイ」のごとき振る舞いは恥ずかしい限りでしたが、それでも何とか成約にこぎ着けることができました。客先から東京宛てにエルシー(信用状)が開かれ、貿易実務のイロハを遅まきながら再認識したものです。

本社方針によりホノルル出張所は1975年6月に閉鎖と決定しました。当時の日本人駐在員は私ひとりだけ。次は一体どこへ異動となるのか皆目見当もつかず、閉店作業に追われる不安な日々を送っていたところ、上記のクリンカー商売が取り持つ縁で本店セメント部が私を拾ってくれることとなり愁眉をひらきました。この後、1992年に当社を定年退職するまでの約17年間、セメント部に在籍します。途中、在インドネシアの日イ合弁セメントメーカー(セメン ヌサンタラ社)に当社利益代表として4年ほどの出向も経験しました。

胸を張って背番号を

1958年に入社以来、各部門を転々としてきた私もセメント部でようやく安住の地を得た感に浸りました。退職までのごく短期間でしたが、ありがたいことに「セメント部長」を拝命し有終の美を飾らせていただきました。当社では現在でも自分の所属部門を「背番号」と通称します。「私の背番号は鉄鋼です」とか「彼の背番号は化学品のはずだ」と言う調子です。この背番号は定年退職後も呼称されますので、私は今でも「背番号はセメントです」と胸を張って自己紹介をしています。

ところで、後輩諸君との雑談の折に「仕事絡みで何か恐ろしい経験をしたことはないですか」などと尋ねられることがあります。当社の仕事は極めて多岐にわたり、各人が多種多様な経験をさせられます。「恐ろしい経験」と言っても人それぞれですから一概には決められません。私自身の「恐ろしかった思い出」のひとつを、お粗末ながら次稿でご披露してみましょう。ただし、かなり歳月が経過しているので大分風化した感は否めませんが。

※本記事は匿名とさせていただきます。